僕は「孤独」という概念がいまいち理解できません。
もちろん「孤独」という概念がどのようなものなのか理屈では理解していますが、自分自身がそれを感覚として知覚できているかというと少々怪しいです。
僕は、幼いころからあまり独りでいることの淋しさのようなものを感じたことがありません。
過去の記事(氏か育ちか)で書いた通り、そもそも小さい頃から独りでいることが多かったので、要は慣れているということなのかもしれませんが、とにかく独りでいても淋しいとか、人に会いたいとか、人恋しいとか、そういったことを思うことがありません。
そのため、よく言われる「孤独」が人の精神に与える負の作用のようなものもよく分かりませんし、孤独が辛いとか、孤独で精神を病むとか、そういった世の中の普通の人が普通に持っている感覚がいまいち理解できません。
ちなみに、これだけなら例えばスキゾイドの人とか、世の中にはあえて「独り」を好むタイプの人は大勢いますし、ただ「孤独」が平気というだけ、と見えるかもしれませんが、僕の場合はそれとはまたちょっと違っていて、そもそも独りがいいとか、独りになりたいとか、そういったこともあまり思うことがありません。
前述のスキゾイドの人たちのような「孤独」を好むタイプの人たちは、「自分以外の他人」といることによりストレスを感じ、「孤独」でいることを自ら望んで選択している人たちということになりますが、僕の場合はそれすらもありません。
例えば僕とツレとの関係、世間一般ではカップルや夫婦の良好な関係を保つコツとして「お互いがそれぞれ独りの時間を持つ」というのがありますが、僕はツレと一緒に生活するようになってもうウン十年、一度たりとも「独り」になりたいと思ったことがありません。
極端な話、ツレと365日24時間ずっと一緒の空間にいたとしても、おそらく僕はほぼストレスを感じないと思います。
会社での人間関係、例えば休憩時の雑談とか、大勢での飲み会なども特別嫌いという意識もありませんし、お喋りは好きな方なので、むしろ積極的に楽しめる方かもしれません。
とまあこういった感じで、「独りが好き」「孤独が平気」という感覚も、「人恋しい」「大勢でいると楽しい」という感覚も、どちらの感覚も僕の中にはほぼありません。
こういった点から考えられる結論は、そもそも僕の中には「独り」や「大勢」といった認識そのものが無いのではないかということです。
自分でもまだよく分かっていないのでこれは想像になりますが、過去の記事(情緒的な繋がりを認識できない)でも書いた通り、僕には他人との「繋がり」自体を認識できないという性質があり、このあたりがポイントなのではないかと考えています。
要は、他人との「繋がり」を認識できないため、僕の中には「独り」の認識しか存在せず、「相手と自分」とか「大勢の中の自分」という認識がそもそも存在しないのではないかということですね。
それはつまり、「孤独」という概念が無いというよりも、僕にとってはそもそも「独り」という概念自体が特別何かしらの意味を持つものではないということなのかもしれません。
この感覚についてはまだまだ掘り下げる余地がありそうなので、これからも内省を続けてゆこうかと思っていますが、まぁなんにせよ、独りでいようが、誰かといようが、常に「独り」であるという感覚は、少々人間味に欠ける性質だなとは思います。